いきなり「伊那の勘太郎(いなのかんたろう)」と言っても、「なに? それ?」と首を傾げる人がほとんどのはずです。
勘太郎は伊那市では誰でも知っている名前です。しかし、そのくせ「じゃ、どんな人?」と市民に聞くとほとんどの人が「はっきりとは知らない・・・」という不思議な運命を背負った人物なのです。
長野県伊那市では有名人。でも、伊那を一歩出れば、ご高齢の方を除いてほとんどの人が知らない謎の人物「伊那の勘太郎」を探ります。
伊那の勘太郎とは何者か?
一言で言えば「戦時中に大ヒットした映画の中のヒーロー」。当然、実在の人物ではない。
第2次世界大戦中の昭和18年に東宝で封切られた映画「伊那節仁義」(副題として“伊那の勘太郎”)は、軍事一色の当時の日本映画の中で大ヒットを記録した。
軍部の締め付けが厳しい社会事情の中、この映画は史実として幕末に伊那谷を通行した水戸藩の勤王党「天狗党」を、勘太郎が手助けをするという筋立てで辛うじて検閲を通過したといわれている。
しかしその内容は、ふるさと伊那に帰った勘太郎が義理と人情の狭間で揺れる日本人好みの勧善懲悪時代劇。
主演は元祖「流し目」で日本中の女性をとりこにしていた、昭和を代表する二枚目俳優長谷川一夫(はせがわかずお)。その相手役・ヒロインには大女優山田五十鈴(やまだいすず)。この当時東宝の看板スターの競演映画が当たらない訳がない。
小畑実(おばたみのる)の歌う主題歌「勘太郎月夜唄」もその軽快なリズムに乗って空前の大ヒットとなった。
それはもう、ものすごい大当たりで、日本全国津々浦々「伊那の勘太郎を知らないものはいない」と断言してもけっして大げさではないこととなったのである。
こんな話もある。
敗色濃厚となっていった戦争末期。捕虜となった日本兵は本名を名乗ることをはばかり、次々と自らの名前を「伊那の勘太郎」と名乗った。
あまりに多いその名前にアメリカ軍は「伊那の勘太郎とはいったい何者だ?」と調査したとのこと。捕虜経験者がテレビ番組で語っていたことを私は記憶している。
なぜ伊那の勘太郎なのか?
この映画の監督である滝沢英輔と脚本家の一人、三村伸太郎は1930年代に山中貞夫、稲垣 浩らとともに「鳴滝組」というグループを結成し共同で映画作りを行っていた。
当時、市丸姐さん(日本におけるアイドルスターのはしり)の美声で大ヒットしていた「伊那節」に目をつけた鳴滝組は伊那を舞台にした娯楽時代劇映画の製作を思いついた。
タイトルは前述の「伊那節仁義」、三村伸太郎が原作を執筆、同グループの八住利雄の協力を受け脚本が起こされた。
そして主人公の名前が、稲垣 浩のあだ名「イナカン」から発想して「伊那の勘太郎」となったわけである。
伊那の勘太郎はウルトラ有名人
戦後、昭和27年に大映が上伊那郡伊那町、高遠町、長谷村で大ロケーションを敢行。主演・長谷川一夫、ヒロイン・音羽信子の第2作「勘太郎月夜唄」を世に出し、これまた空前の大ヒットを記録した。
おかげで信州の片田舎「伊那」の知名度は一躍全国区に踊り出た。それに気をよくした伊那市(昭和29年4月1日市制施行)と伊那商工会議所は、春日公園に今に残る巨大な「伊那の勘太郎碑」を建立した。その石碑の揮毫は当時の大映社長、永田雅一氏によるものである。
昭和33年9月14日、伊那市はその永田氏を迎えて盛大に、そして厳粛に勘太郎碑の除幕式を行った。
そしてその日、現在の伊那市最大の祭り「伊那まつり」の前身である「勘太郎まつり」の第1回が実施されたのである。
勘太郎月夜唄には、伊那市在住の花柳弥寿太郎氏により軽快な踊りが振り付けられ盛大に踊られた。その踊りは現在の「伊那まつり」でも勘太郎踊りの基本形として踊り継がれている。
こんないきさつもあり、昭和18年から27年ごろに子供ではなかった世代、つまり現在(平成30年2月現在)およそ80歳以上の日本中の皆さんは誰でも「伊那の勘太郎」を知っているのである。
実はそれが本当に「断言ができる」ほどに伊那の勘太郎は超有名人だったのである。
伊那の勘太郎はどこへ行ったのか
昭和34年、東千代之介主演による東映映画「伊那の勘太郎」を最後に勘太郎は銀幕の世界から姿を消した。
当時、勘太郎の知名度は抜群であった。しかし、この映画は前2作ほどには当たらなかったようである。
その後も歌手の北島三郎さんが座長となる歌謡ステージで伊那の勘太郎が扱われたこともある。しかし、ターゲットとなるお客様は間違いなく銀幕の勘太郎を知っている世代であった。
昭和33年9月14日に除幕した伊那の勘太郎碑の撰文にはこう書かれている。
伊那の勘太郎事跡
勘太郎は文化の頃(西暦1804~1817の頃=以下( )内は筆者訳注)伊那に生る謂(いわれ)あり幼少にして父と共に江戸に上る長ずに及び任侠の世界に身を投ず時天保年間(1830~1843)国定忠治に従う然るに忠治の処世に疑問をもつに到り訣別して生地伊那に帰る爾来(じらい=その後)天竜に筏を組み林業に励む傍ら下流飯田方面勤王の士に交友す偶々(たまたま)水戸天狗党の盟主藤田小四郎大参謀武田耕雲斎等討幕をめざして西下の途次伊那に入る時元治元年勘太郎王政復古こそ救国の大道なりと信じ敢然一行に加り加賀に到る耕雲斎武運拙く遂に斬せらるゝに及び志半ばにして再び伊那に帰り余生を孝子節婦の訓育に勉め六十余才を以て此地に没す
紀元二千六百十八年(昭和33年=1958)九月十四日
伊 那 市
伊那商工会議所 建之
※左:真ん中、伊那の勘太郎碑。 右:勘太郎月夜唄歌碑
この「伊那の勘太郎事跡」は、あたかも勘太郎が実在の人物であるかのように記述がされている。(この事跡、勘太郎にまつわる創作以外に歴史的ツッコミどころが多い。しかし昭和33年の記述ならやむを得ないところ。今回は触れないでおく)
そしてまた、映画には登場しない生い立ちと映画の後の余生についても追記があり、その生涯は長谷川一夫が演じた勘太郎の物語とは違ったものとなっている。
どうもこの時、勘太郎は「伊那市のものになった」ようである。全国のものではなく「伊那市のもの」に。しかし、そのことに、そしてその意味に気づいたものは誰もいなかった。
なぜなら、昭和39年当時、伊那の勘太郎は日本全国誰でも知っている有名人だったから…。
以来、伊那市は勘太郎を「全国区」のつもりであつかってきた。そうやって「勘太郎まつり」「伊那まつり」と勘太郎月夜唄を半世紀以上踊りつづけてきた。(※1)
その由来も、その経過も、その正体も今や多くの人が知らずに、ただひたすらに年に一回の「伊那まつり」で踊り続けてきているのである。
こうして勘太郎はタイムカプセルのように伊那市という限定された地域において「全国区」であり続けた。しかし、当然その全国区は大きな勘違いだった。
なぜなら本当の全国においては生き証人たちの減少により勘太郎の存在は確実に薄れ、全国区ではない世代が着実に増えてきたからである。
半世紀近く続けてきたことはやはり「伝統」というのであろうか。今、伊那まつりを本当に実行する皆さんにとって勘太郎の処遇は大きな悩みの種である。
なぜなら、もはや勘太郎月夜唄を自ら進んで楽しんで踊る若者は存在しないから。
勘太郎はどこから来て、どうして伊那にいるのか。なぜ勘太郎月夜唄なのか。なぜ伊那まつりで踊られるのか。歌われるのか。多くの市民がわからないでいる。
しかし、平成29年(2017)は伊那まつりが第45回を迎え、勘太郎まつりから通算すると(※2)第60回の記念開催となったため、実行委員会では「伊那の勘太郎」にスポットを当てようといくつかの提案がなされた。それにより勘太郎が映画の主人公だということを改めて知った人は多かったのではないだろうか。
(※1※2 昭和33年9月14日を第1回とした勘太郎まつりは伊那商工会議所主催により昭和47年第15回を数えるまで行われた。
内容は商工会のご婦人方が勘太郎の股旅姿に扮して伊那街各所で勘太郎月夜唄踊りを披露するもので、踊り手の中には妍を競う伊那の花柳界のお姐さん方もいたと聞く。
昼間はその踊り披露、夜は花火大会という形だったが、回を重ねるに従い踊り手がいなくなったため実施困難となっていった。
しかし、ちょうどそのころ長野県内の市では「市民祭り」という新しい形態の祭りが始まりつつあった。タイミング的には「渡りに船」だったのかもしれない。
勘太郎まつりは発展的解消となり、市民祭り「伊那まつり」に引き継がれることとなった。そしてその実施担当は市役所となった。
伊那まつりは市民祭りであると言うことから、市民誰もが動員されて踊り手となったのが勘太郎まつりとの大きな違いだった。この伊那まつりも大きな変遷があるがそれは別稿としたい)
現在の伊那まつりにおいて、民謡「伊那節」と勘太郎月夜唄が踊られている。しかしそれは参加者の指向に合わず、伊那節・勘太郎不要論は毎年繰り返される長きにわたる伊那まつり大きな課題となっている。
現在のところ、かろうじて不要論は否定されている。しかし、より積極的な必要論が登場する様子もない今、世代の交代により勘太郎月夜唄は、勘太郎踊りはどうなってしまうのか。
もはや「時間の問題」と捉えているのは私だけではないだろう。
伊那市の勘太郎
現在、ネットで長谷川一夫DVD作品を検索すると昭和27年作品「勘太郎月夜唄」が売り物としてヒットする。この作品は版権を伊那商工会議所が購入取得しているのだが、その関係で世に出回っている物だろうか。
この「勘太郎月夜唄」は名刹「常圓寺」をはじめ、伊那のご当地ロケがふんだんに入り、また、長谷川一夫が踊る伊那節が見ることができる貴重な作品だ。
対して昭和18(1943)年作品「伊那節仁義」は販売品としてのヒットがない。ネット上にはもはや往年の大スタア長谷川一夫を見たい人がいないということであろうか。
もっとも、映画の著作権はその公開後70年と言うことらしいので「伊那節仁義」は平成25(2013)年から著作権フリー状態と言うことになる。「勘太郎月夜唄」は2021年に著作権フリーになる。
両作品とも伊那市立図書館に収蔵されているので、伊那市に来ればいつでも見ることができる。
しかし残念ながら昭和34年の映画「伊那の勘太郎」の存在は確認されておらず、著者もこの映画は見たことがない。完全に廃盤となってしまったのだろうか。どこかの倉庫でひっそりと眠っていればよいのだが…。
かつて勘太郎をあたかも実在の人物のごときにしたかったのは、清水の次郎長、大前田英五郎、国定忠治といった実在の人物のように、少しでも長く歴史の中に勘太郎の記憶をとどめておきたかったからであろう。
しかし、流行の中に生まれて流行の中に生きた勘太郎の「さだめ」を変えることは誰にもできなかった。
勘太郎は今思い出の中にしか生きていない。そして勘太郎は今や、名実共に伊那市だけのものである。
ゆえに伊那市を一歩出るとその名前は遠い昔話となってしまう。昔を知る人には懐かしいが、知らない人にはまったくわからない名前なのだ。
第18回伊那まつり(平成3年)に来伊した亡小畑実氏夫人はこんな言葉を残している。
「もう忘れ去られたものと思っていた勘太郎月夜唄がこれほど盛大に歌い継がれているとは、うれしくもあり、驚きでもあります」
忘れることのできない、とても印象的な小畑夫人の語り口であった。
伊那市は勘太郎を映画から与えられてただそのままに親しんできた。時間と共に薄れてゆく記憶を押しとどめる工夫を仕掛けることもなく、ただただそのままに親しんできた。
スクリーンで活躍する勘太郎と同じ時代を生きた生き証人達が時の流れとともに少なくなっている今、勘太郎はどうなるのだろうか。
伊那市の勘太郎はこれからどこへ行くのだろうか…。
おまけ
同じく映画「男はつらいよ」のフーテンの寅こと車寅次郎=寅さんの存在は現在多くの日本人が知っています。
しかし、実は寅さんも勘太郎と同じ運命をたどっていると言って差支えないでしょう。実際、「男はつらいよ」の最終作が1997年。その当時大人ではなかった世代は寅さんのことを知らないのです。
勘太郎は半世紀以上たっても伊那の地で生きています。おそらく寅さんも今後相当の長きにわたって葛飾柴又の地で生きていくことでしょう。
伊那の勘太郎とフーテンの寅、皆さんはどう思いますか?
※左は春日城址二の丸にある 伊那の勘太郎 碑と 勘太郎月夜唄の歌碑
※右は春日城址(春日公園)からみる赤石山脈(南アルプス)の仙丈ケ岳(3033m)と伊那市街
平成30年2月3日(初稿平成13年)